今年、さらにここ数年の自分をぼんやりと振り返っていてふっと思った言葉です。
生きていると色々なことに悩んだり挑戦することはあり、私もそうやって生きているのですが、自分にとって所詮「適所じゃない」ものは、結局あまり大きくならないんだなと。
こう書くと凄くネガティブな感じかもですが、必ずしもそんな気分でもなく、例えばですが「縁がなかったんだ」と思える人、環境、仕事などにいつまでもいつまでも執着し続けることって、それほどないと思うんです。
時間がかかっても、その人と今一緒じゃなくて良かった、あの環境にいつまでもいなくて良かった…そのように人生が導いていってくれる。
その過程のなかでは、そういうものに時間を費やしたことへの後悔や失意、怒りを味わう時期もあるかも知れない。でも、それも過ぎ去ると、肯定の境地が生まれてくる。適材は適所に。自分はそこで適材ではなかったのだ。
かわりに、自分には自分の適所がある。
そんな風に思い始めると、他者への執着もなくなってくる。なぜ、あの人はああなのだろう…と他者にエネルギーを注ぐのではなく、「あの人はあの人らしく生きているのだ」と思って手放せるようになる。適材は適所に。それが一番。そういうものなのだ。そう思って、心からさようならを言えるようになる。
様々な挑戦や葛藤、あらゆる感情のあとに、大きな器となって出来事を受け入れられるようになってくる。それは生きることの醍醐味かも知れません。そして挑戦や葛藤があるからこそ、自分の適所が本当に見えてくる。だから、無駄な経験は一つもない。まわり道のように思えることは、時間をかけて学ぶ必要があったのだというメッセージなのですね。